主体的も受動的も実は同じこと?
実存は本質に先立つ ジャン=ポール・サルトル
実存=存在のこと
本質=あらかじめ決められた運命のようなもの
*要約*
人間は物とは異なり、生まれつき用途が決まっているのではなく
自分次第で運命を変えていける。人生は自ら切り拓いていくべき。
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たしかに。
サルトル、良いこと言ってる。
重箱の隅をつつきたがりな私でも、
これは反論する余地なしって感じだ。
でもな~んとなくスッキリしないというか…
めちゃくちゃ真っ当なこと言ってるし美しいんだけど、
なんか美しすぎて鼻につく(←)
この精神で生きていけたらどれだけ人生楽しいだろうって思うけど
実際そんな甘くないんじゃない?と思ってしまう。
ん?いや、違うか。
むしろこっちのほうが険しい人生になるのかな。
なんにでもなれる=自由ってことはポジティブな面だけじゃないもんね。
自分で選択して切り拓いていくほうがずっとエネルギー使うし
全部自分の責任だからかなりめんどくさそう。
その点、生まれつき用途が決まっている、物のほうが
楽に生きられるのか。
自由に生きられない代わりに、挫折も苦労もない人生って感じ?
どっちがいいんだろう?
どっちが正しいってことはないのかもしれないけど。
てかそもそも、こういう風に2種類の事柄が目の前にあると
どうしてどちらかを選ばないといけないような気持ちになるんだろうね~。
両者とも一長一短あるし、優劣はつけられない。
あ~でも少なくとも人間は、
ボーっとしてて生きていける生物ではないのは明らかだから
なにも選択しないで流れに身を任せるだけ~みたいなことはできないよね。
いやいや、私はなんの意思も持たずに周りに合わせて生きてきたぞっていう
人がいたとしてもその生き方を選択してる時点で、
その人はそういう人生を切り拓いてる、って言えるんじゃないかな。
ということは人間はやはり実存主義な生物なんだろうか。
逆に、本質主義っていう言葉があったとして(あるのかな?)
それってどういう生き方なんだろう。
ある特定の目的のために生まれて、一生その用途で使われること。
かな?
なんか受け身な表現だなあ。
実存主義は主語が一人称だけど、本質主義は主語が三人称って感じ。
実存主義=主体的
本質主義=受動的
っていう解釈の仕方もできそう!
でも主体的と受動的って、正反対のところにあるように見えて
実は表裏一体な感じもする…
例えば、何かを決定する場面において、
主体的のイメージって「自分で選択して決める」だし
受動的なイメージは「他者の決定に従う」みたいな感じだと思うんだけど、
それってたとえ「自分で決めた」と思っていても
その決定に行きつくまでに様々な外的刺激を受けてると思うんだよね。
(有名なあの人はこれを選んでたよな、
これにしたほうがきっと周囲も喜ぶだろう、とか)
それってつまりは周囲の環境に影響を受けている=受動的
って言えるんじゃないか?
そして「他者の決定に従った」と思っていても、
先述した通り、最終的にその決定に辿り着いたのは
自分自身が他者の決定に従うことを「決めた」=主体的
ってことなんじゃないか?
といった具合だ。
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いや~おもしろいね。
ずっと自分のしっぽを追っかけまわってる感じが楽しい(笑)
答えがないから終わりがない…
当時では珍しく、妻と事実婚であったというのだから
勿論世間の風潮に流されない主体的な人物だったんだろう
と推測してしまいますが、
果たしてどうなんでしょうか・・・
それらも実は受動的な側面を合わせ持っているのではないでしょうか?
参考文献
「むかしむかしあるところに、哲学者がやってきた。」小川仁志